『致知』 医者の人間学 連載㉕
歯槽膿漏は「病気」
私たちは長い間、年を取れば歯は抜けるものだと考えて、あきらめてきました。
しかし、私の長年の臨床経験からいえば、そうではない、歯槽膿漏という「病気」のために抜けることがわかったのです。
病気ですから、予防も治療もできるのです。
ある調査によれば、30歳以上で歯を失う人の90%は歯槽膿漏が原因だという結果も出ています。
虫歯のような激痛こそ少ないけれども、成人の歯を害するということでいえば、横綱級の「病気」なのです。では、歯槽膿漏とは一体どんな病気なのでしょうか。
歯ぐきの中には骨があります。
この骨は歯槽骨と呼ばれています。
この骨に、歯の根が一本ずつしっかりと埋まっていて、歯は立っているわけです。
そして、歯ぐきと歯の境目から細菌が入り込み、深まっていくと、歯ぐきの中の歯槽骨が徐々に溶けてゆきます。
歯そのものは健全でも、ぐらつき、遂には抜けてしまうことになるのです。
多くの場合には、痛みを感じないから、重症になるまで気づきにくいものです。
しかし、その気になってみると、いろいろな症状は出ているはずです。
例えば、歯肉の色を見てください。
力を込めずに、そっと下唇をめくり返してみましょう。
裏側の濡れている部分は淡いピンク色をしているはずです。
歯肉の色が同程度か、唇裏より一段と淡ければ健康とみてよいのですが、唇裏より濃い、濃淡がある、などとなっていれば、不健康だといえます。
また、歯を取り巻く歯肉が、1mmほどの隈取りで赤くなっている、歯と歯の間の歯肉が目立って赤い、などという場合には、要注意でしょう。
赤色が濃く、厚ぼったく、ぷくっとした丸みがあり、ブヨブヨした軟らかい場合は、決して体質ではなく、大抵の場合に、膿漏の初期を過ぎているといえましょう。
それから、歯磨きで、出血して歯ブラシが赤く染まることが何度かあれば、まず膿漏です。また、口臭が独特の嫌な臭いを発するような場合も、歯ぐきから排出する膿などのせいだと思います。
自分ではなかなか分かないものですが、「口が臭い」と他人から指摘されるようですと、症状はかなり進んでいるとみてよいでしょう。
ときどき歯肉が腫れ、痛む場合も、虫歯でなければ、ほぼ間違いなく重症です。
虫歯治療で冠をかぶせたり、継ぎ歯にした歯の、歯ぐきの腫れ、痛みも同様で、冠や継ぎ歯の具合が悪いだけではないことが多いものです。
手術も抜歯も駄目
こうした歯槽膿漏にかかると、従来は、ほとんどの歯科医は、「抜きます」といって歯を抜いてしまうことが多かった。
あるいは、その歯肉を手術して治すという歯科医がいます。
しかし、私は手術を否定しているのです。
少なくとも「手術しなければ治らない」という言葉は誤りです。
手術しなくても治るからです。それだけでなく、いろんな観点から、膿漏の手術はするべきではないと私は断言します。
手術することによって、その利点より弊害のほうが大きいからです。
「手術すれば治る」という言葉には、必ず条件が付いています。
それは「日常ブラッシングによって歯垢を完全に取り除くこと」という条件です。
歯垢が残っていれば、すぐ再発するからです。この条件を抜きにした完治手術はどこにも存在していないのです。
患者にとって、手術は大事件です。
だから、いくら歯科医が「条件」を付けても、患者の気持ちとして、「治す主役は手術であって、大変な手術をやってもらったのだから……」と安心して「条件」を軽視し、元の生活に戻ってしまうものです。
手術は、歯根の清掃(ルート・プレーニング)をさらに本格的に行うものと考えて間違いはない。
歯肉をはがし、汚れた歯根を直視下できれいにする。
手術時に歯肉も「不良肉芽を除去する」といって切削するが、私はそれを、治癒を妨げるものだとして、ずうっと反対してきました。
確かに手術後は、一時的に歯根部の病変は消えるけれども、原因まで消えたわけではありません。
歯磨きなど生活実態が元に戻れば、容易に再発するし、元通りどころか、元より悪化するのです。
私もこれまで30数例手術を行いましたが、術後管理を丹念に行うと非常に結果がよく、術後管理を放置すると必ず再発することを知りました。
そこで、「手術せずに術後管理だけを行う」療法を試してみました。
この療法が、今日私が提唱している自然良能賦活療法(フィジオセラピー)の原形なのですが、手術しなくても経過はよく、「手術は要らない」ことをそれ以後40年にわたる臨床経験の中で十二分に確証いたしました。
本稿では、その療法を解説することが目的ではありませんので、詳細は省きますが、基本的には、歯垢をためず、強い歯ぐきに鍛え、全身的健康に気を配って歯ぐきへの血液供給を正常に戻せば、病因が除去され、からだの自然治癒力が少しずつでも骨を回復強化してゆくのです。
歯垢除去と歯肉鍛錬が目的
歯槽膿漏は、患者が歯を正しく磨くなど、生活を変更して養生に身を入れなければ、この病気の根治はあり得ません。
対症療法で腫れを取っても、必ず再発するのです。この病気の進行は遅いけれども、自覚症状が出始めると、加速度的に腫れや痛みが頻発し、漏れ出す膿量が増し、噛めなくなります。
そして、数ヶ月か数年で、その歯は脱落するのが普通です。
それでは抜歯すればいいのかといいますと、そうではありません。
抜歯し、床付きの部分入れ歯を作ったところで、膿漏になるにはそれだけの原因があるわけですから、その原因が放置され、入れ歯をすることによって、かえって悪化することにもなるのです。
残った歯にも腫れと痛みが出てきて、次々と抜けていきます。
膿漏で歯が抜ける生活を続けると、必ずアゴの骨そのものがやせてきて、入れ歯が合わなくなったり、揚げ句には、仕事はもちろん、食べる楽しみ、おしゃべりの楽しみまで奪われ、不機嫌のあまり、人格崩壊しかけた患者さんさえいるのです。
歯槽膿漏の治療には、この歯を救えるかどうかは、患者が「やる気」をどこまで保ち続けられるかに大きく左右されます。
その患者の意欲を保つのは歯科医の責務であり、腕であるとさえ、いえます。
私の場合は、これまで、歯肉をカラー写真で記録し、それを次回に患者とともに「現状」と比べつつ、病状がどう改善されつつあるかを話し合ってきました。
私は、歯槽骨が歯根の3分の1ないし4分の1まで減った例を救ってきました。
その経験を通して、基本的ないくつかの点について、述べておきたい。
歯槽膿漏の根治は、第一に細菌の後続を断ち、第二に抵抗力のある歯ぐきを作ることです。
この2つは、丹念なブラッシングで、かなりの程度、実現できるものです(ブラッシングの方法については、機会があれば、後日、ご紹介します)。
ブラッシングは、単に歯垢を除去するためだけにするものではなく、歯肉鍛錬も兼ねているのだということは忘れないでいただきたい。
それから、歯磨き剤は、一切禁止すべきです。
毛先が狙う所に当たっているか、傷がつかないかの視認の邪魔になるだけではなく、歯磨き剤で歯の根が磨り減り、水などがしみて、その後の治療が困難になることも多いからです。
また、出血の味や匂いをわからなくさせたり、添加物のため、口の感覚など健康面の不安もあります。
歯磨き剤をつけないと、歯が薄汚く黒ずんでくるのを嫌う人もいますが、3、4か月付けずに磨き続けていると、再び白くなってくるので、それまでの我慢です。
歯垢除去と鍛錬が目的ですから、持続することに最大の意味があります。
日常生活での注意点
それから、これだけは生活する上で注意をしてほしいと思います。
第一に、砂糖を追放したい。
砂糖は虫歯だけでなく、歯槽膿漏にも予想外に影響を及ぼすものです。
砂糖は歯垢を悪質化します。
歯垢内の細菌に取り込まれて歯垢が強力なノリ状になり、歯にへばりつくのです。
そして、強く付着した細菌層の下に、膿漏の細菌が繁殖するようになります。減量とはいわず、厳禁したいものです。
第二に、食生活の検討ですが、噛む回数を増やし、硬い食物への移行準備が必要です。
そのためには、まず、軟らかいものを一ロ50回噛むことから始めるとよいでしょう。
噛むことによって唾液が出ます。唾液中のホルモンが骨の回復に役立つのです。歯ぐきの血行もよくなります。
50回噛むうちに、軟らかい食物は溶けてしまいます。
最適なのが玄米です。繊維が口に残り、100回でも噛めます。
玄米に限らず、日本古来の、繊維の多い食物はよいでしょう。
野菜の煮ものから始めて、最終的には小魚の煮しめやスルメがよいのですが、この場合、一気に硬い物に移行せず、ゆっくりと移行していくことです。
第三に、呼吸法の改善もしたいものです。
歯槽骨にも歯根膜にも、歯の中の神経(歯髄)にも、血液で栄養や酸素が供給されているわけですが、歯の周りの細い血管への血液供給は少なくなりがちです。
したがって、徐々に血流を増やしたい。
そのためには、ジョギングやサイクリング、水泳などがいいのですが、手軽に実行できるうえに歯ぐきに非常に効果的なのが、空気を吐き尽くす腹式呼吸なのです。
深呼吸ではありません。
空気を肺の中から絞り出す気持ちで、身をかがめ、可能な限り吐き切るのです。
鞄を持ち上げるとき、靴のヒモを結ぶとき、トイレに座ったときなど、日に10回から数10回試みるとよいでしょう。
第四に、食いしばりや歯ぎしりの癖は膿漏に非常に悪いものですから、改めるよう努力しましょう。それと、もう一つ大事なことがあります。
全身の健康も大きく影響するのです。
それは、糖尿病です。
血糖値がしっかりとコントロールされていなければ、膿漏回復は望めません。
「ちょっと糖尿の気がある」という患者の場合、なかなか改善しないので、よく調べてみると重い糖尿病であったなどというように、大変な妨げになります。
糖尿病に比べると影響は少ないが、動脈硬化も闘病を妨げやすいものです。
コレステロールや中性脂肪にも注意しなければならないでしょう。
また、徹夜すると虫歯がうずき、心配が続くと歯が浮き、入れ歯がガタつくなど、ストレスは歯に影響しやすいものです。
歯槽膿漏の人は、もともと歯ぐきが弱いものですから、ストレス、睡眠不足、疲れ、ちょっとの無理でも、てきめんに歯ぐきが悪化します。
その他、注意すべき点はたくさんありますが、要は、「これだけで膿漏が回復する」といった特効薬はないのです。
正しいブラッシングを根気強く続けることと、日常生活の改善を図っていくことによって、根治への道が開けてくるのだということを、深く考えておくべきでしょう。
医者は「癒やし手」
ところで、私が歯周病予防と治療のためのブラッシングという考え方を日本で最初に考えたのは、なぜかについて述べておきたいと思います。
歯科の病気は、文明生活に由来するものだという考えを最初から私は持っていました。つまり、生活そのものの在り方が原因だということです。日本は戦後、ないないづくしの中で、物への執着が強く、物中心の生活が続きました。その物を基礎にした暮らしの中で、起きてくる病気の姿が変わってきたのです。
終戦直後、保健所が一生懸命になったのが、結核、寄生虫病、それから頭にはシラミ、目にはトラコーマ、さらには性病が蔓延しました。
そういう接触感染症のようなものが主体だったわけです。
そのころ私は、保健所で口腔衛生をやっていたわけですが、歯槽膿漏など見向きもされず、保健所は井戸水の検査や下水処理など公衆衛生ばかり懸命になっていたのです。
結核一つみても、終戦時分には、日本人が結核で非常に困っていたときに、アメリカではもう結核はほとんどなくなっていました。
今、パス・マイシンなどよく効く薬を東南アジアに持っていっても、結核は全然減りません。
それは、物と生活の仕方が大きな原因だからです。
だから私は、貧しいながらも生活を変えることによって病気を減らしていく方向を見つけだしていくことが大事なんだということを確信して、それを終戦後、歯科の分野でやったわけです。
物中心の社会が発達していって虫歯がどんどん増えてきました。
日本の虫歯の増え方と、高度成長のラインとは同じなのです。発展と同時に虫歯が増える。
つまり、食べ物が変わる。砂糖を中心にして、小麦粉を真っ白にし、そして化学調昧料なんかが、どんどん入ってくる。
それでどんどん悪くなる。
だから、そういうものをどうやって防いでいくか、これは誰がやるかということです。
治すとは、一体どういうことか。
歯を治すといっても、歯は治りっこないのです。
虫歯の穴の駄目になった組織を外科的に取って、きれいに掃除をして物を詰めたり、かぶせたりしても、それが取れれば、もともとです。
どうやってもそこは癒えないのです。
治癒の治と癒は別のものです。
「癒」というのは「癒える」ということで、医者は「癒やし手」です。
援助しながら自力で癒えていく芽を待つのです。そして、癒えるのを待つ間、二度と再感染しないように、痛みがひどくならないように包帯します。
しかし、包帯自体は機能しないから、機能しないものを機能させるようにして、長持ちする包帯をして癒えたようにするのが歯科治療の本当の目的なんです。
したがって、機能するような包帯を作り上げていこうとしているのが歯科の治療なのです。
しかし、虫歯はいつまで経っても癒えることはありません。
外科の始祖のアンブロワーズ・パレが「我、包帯す、神、これを癒やし給う」と言っています。
自分は治すことを手伝うことはできるが、本当に癒やすのは本人の力なのです。
そのことがはっきりわかっている人が本当の医者だということです。
歯科医はそこがわかりにくいのです。
自分の力で治すことは虫歯ではできない。
ところが、歯槽膿漏は、自分の力で治ってくるのを待たなければならないのです。
ですから、歯科医にとっては、歯周病治療をやりだしたとき、初めて治癒、癒やし手ということの大事さがわかってくるのです。
治そう、治そうとするだけではなくて、治す力をつけてやること、その力をつけるためには、自分で暮らしを変えることです。
力がつけば癒えてくるし、予防にもなってくるのです。
患者に自ら気づかせる
今の病気はほとんどの場合、バランスの崩れから起こります。
人間の体内には常在細菌がいて、バランスが崩れたときに病気が出てくるのです。
外から特別なものが入ってきて起こるものではありません。
我々の体には、50兆ともいわれる細胞がみんな同じように力を出し合って健康というものを保って生きているわけですが、この細胞の数の2倍以上の100兆くらいの細菌が体の中に一緒に生きているのです。
その細菌は、人間に害を与えないで自分だけで生きているものもあれば、害を与えるものもあります。
その共生状態の中でバランスがとれているのです。
そのバランスが崩れる、つまり、人間の細胞と細菌の共生が崩れて、一方だけがよくなったり、共倒れになったりする。
その状態が今の病気です。
成人病といわれる病気はみなそうです。
その原因は、結論からいうと、自分の生活の間違いのために体力が落ちるということ、それから局所の抵抗力が落ちるということです。
そこによくない菌が増えるわけです。
人間というのは、ある組織はある任務を受け持って発達しているわけで、その任務を放擲したときには全然駄目になります。
例えば、手や足を使わなければ細くなります。歯を使わなければ歯も、歯を支える組織も弱り、悪くなるのは当然のことでしょう。
噛むものも噛まないで食べるようなことをすると、いっぺんに悪くなるのです。
したがって、最も大切になってくることは、自分の体の持つ組織の機能を十分に発揮させること、そして滅びの道を歩まないようにして健康を増進させることです。
そのためには、まず、食生活の改善なのです。
正しい食べ物を選んで正しく食べる、つまり、よく噛んで食べるということです。
まるごと食べる。
頭から尻尾まで全部、葉っぱから根っこまで全部食べることです。
そして、その土地で採れるものを食べることです。
そうした食生活の指導者として一番ふさわしいのが、歯医者なのです。
われわれは使命感を持って、「この人のために、この人に変わってもらうのだ」という態度で接しなければならないと私は考えているのです。
医者や医療者が教えるのではなく、患者が自ら気づくように接して、その結果、その人が自分で気づいて生活を治すのです。
それが本当の医者の在り方だと私は信じております。「致知」1989-8